薄羽カゲロウ日記(葉月五日)

h-imagine19722010-08-05

 現代における小説の意義のひとつとして、生活のなかでさまざまな奇妙な現象が起こり始めた時、その現状をつまびやかにして皆に問い掛けてみる手段という役割があらたに加わつたようにも思います。


私も京都七条で生まれて初めて気絶というものを経験してから、諦めが悪い人間にはこうした警鐘ともいえる出来事が起こるのではないか、と思い始めました。そうして三年、読書と小説めいたものを書き、コンクリートの壁と壁とに隔てられて孤独な日常をおくり続ける人間と、現代人が忘れてしまった汗を流す労働のよろこび、貧困の萌芽が出始めた当時の空気。そして円山川の氾濫で失われた仲間の生命と紙一重だった自分の思いとご家族への鎮魂のつもりで、昨年関係者の了承も得ずにそのまま素描してしまいました。


 丹波氷上での生活は、郊外の住宅地で育つた私の生活観とあいいれないものが多く、逆に反対の思考として学ぶものが多かつたのです。したがって「一応、仲間ではあるが仲間にしてはいけない」というどこかヨソヨソしく孤独な生活を再構成して、他者との対話とお互いの態度の濃淡と風景描写、そして現場での資材搬送の記憶を寺田寅彦先生が芝刈りを始めて循環がよくなつたときのような心の躍動感をまねて表現したかつたのですが、もはやこういつた事象を問い掛ける時季は過ぎたと感じ断念しました。


 何処かの先生が著書のなかでおっしゃっていたのですが「神経症の人間が多くなつたのは人間が大地を支配するよろこびを失ってからである」という言葉を読んでハッとしたことがあります。


 今西錦司先生の『自然学の展開』(講談社学術文庫)を再読していたら、以下のような言葉が出てきました。


「それで自意識を消したらどないなるか、ということです。たとえば禅のようなことをやって皆さんがねらっているのは、過剰になった自意識を減らしてみよう、ということにあるんだろうと思うんですが、古来の人はですね。


主客未分 主客合一 心身脱落


と言うた。昔から言われている「主客未分」の状態、あるいは「主客合一」の状態、これと「心身脱落」とがまったく同じものか、もう一つはっきりしませんけど、そういう状態にまず自分を置いたらどうか、と。」


 十三年ぶりに実家に戻ったのですが此処での役割は「大人しい息子であること」。この状況では驢馬や子供に成り得ても獅子になれない。私がいくら読書好きだといっても限度があります。こういつた役割の臨界点に達したようで、私は再び職探しを始める。こういつた無意味な循環が続いています。私にとってよい循環とは、夜の八時くらいまで無心で労働しニ時間くらいこれも無心に読書をして寝ることなのです。これは自分の裁量で日常を充実させるべく自己設計すべき時季がきたのだろうか? どうどうめぐりの思考が続いた後、こういつた結論に落着きました。